メールマガジン(9.14)を配信しました。

「日本発の強靭な体育・スポーツ観/論の構築を!」
  
 わが国ではスポーツの価値に「人間形成」や「人格陶冶 」が第一義に位置づけられてきた。そして、それは学校という文化伝達装置を通して、特に体育授業や運動部活動の中でわが国の人々や、 戦前には植民地統治下にあった人たちにも伝えられた。長い時間を経過して今もなお、「人間形成」や「人格陶冶」がスポーツの価値の首座を占める。わが国の体育授業やスポーツでは、運動の自発的な楽しさや喜びを追求することよりも、「人間形成」 や「人格陶冶」というスポーツの手段的価値こそが重要とされるわけである。果たしてスポーツそれ自体の内在的価値(intrinsic value)よりも、外在的価値(extrinsic value)が重視されるというのは、いったいどのような理由や経緯に依るからなのか。

 ここ数年、スポーツ庁の第3期「スポーツ基本計画」の作成に参画してきたが、「スポーツの価値とは何か」を考えるようになった。そして、スポーツの価値をめぐるこの問題の発端には、戦前期にわが国の体育・スポーツの基盤を創った嘉納治五郎の哲学(カノウイズム)が横たわっているといつしか思うようになった。コロナ禍の行動制限は、文献収集には手間取ったが、この仮説の検証に最適の時間であった。嘉納とその教え子の大谷武一、オリンピアンだった野口源三郎、歴史研究と研究者養成に生涯を捧げた今村嘉雄らを通して、彼らの人的ネットワークと文化資本を通して、カノウイズムに基盤を置くスポーツの価値の顛倒が起こったことが理解できた。唯一、ナチズムに抗してホイジンガがホモ・ルーデンスを執筆する以前に、嘉納の思想に反逆した岡部平太のみがスポーツの価値は運動そのものの快や楽しさや生の悦びにあると嘉納に突き付け、嘉納思想の限界を喝破していた。
 今年は第二次世界大戦の終戦から77年にあたる。また、終戦の年1945年は明治維新から数えて、ちょうど77年目でもある。奇しくも1945年を境に戦前と戦後が同じ時間軸になった。大きな枠組みとしての戦後史、つまり終戦から現在までの体育・スポーツの在りようは、言うまでもなく、同じく大きな枠組みとしての明治維新から終戦までの戦前期のそれを抜きにしては語れない。体育・スポーツの問題の源流にまでさかのぼって、その在りかを確認することでこそ、見えなかったものが見えるようになる。
 東京オリパラ大会が終了した今、このカノウイズムの限界を超えて、「生の悦び」「楽しさ」 というスポーツそれ自体に内在する本質的な価値と、人格陶冶という人間形成的価値を同時に実現可能とする、日本発の強靭な体育・スポーツ観/論や体育科教育のあり方を構築することが、嘉納を超えて、汚職に塗れた東京五輪のレガシーとして何よりも求められるように思えてならない。
(公財)日本学校体育研究連合会 友添 秀則

◆◆◆◆◆◆◆◆ CONTENTS◆◆◆◆◆◆◆
□ 巻頭言
 「日本発の強靭な体育・スポーツ観/論の構築を!」
 (公財)日本学校体育研究連合会 友添 秀則
□ 第26回体育授業研究会新潟大会について
□ 冬の研修会のお知らせ
□ 事務局より
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